読書は人間形成の糧であり、コミュニケーション力の土台であるというのが本書を貫く著者の主張だ。読書が教養だった時代が日本にはあった。大学生は本をたくさん読んでいた。海外の人間が、一般庶民の識字率が非常に高いことに驚いたのは有名な話だ。この読書力が戦後経済発展の基礎になったはずだと著者は書く。
現在は、真面目な本を読むことがかっこわるいことで、こんな本を読んだとかこの本が面白かったという話よりも、面白いことやおかしいことをたくさん知っている方が友だちの中で人気が出る。その結果、大学生は本を読まなくなり、日本の地盤沈下が始まったという危機感を著者は抱いている。
これは私も実感する。本多勝一の「日本語の作文技術」という名著がある。30代のエンジニアにこれを勧めたら、「難しくて読めない」という声が返ってきた。実践的な内容を具体例を使って説明した本で、難解な思想を説いたものではないのにだ。こういう「大人の本」を読んだ経験が少ないため、尻込みしてしまったのだろうか。
かくいう私も、小さな子どものころから大学生までは実によく本を読んだが、最近はあまり読まない。読むのはもっぱらビジネス書や業界紙、そしてネットの記事やブログで、必要な情報を得る目的に終始している。中高生のころに読んだのもSFばかりだったから、齋藤氏が薦めているような名作や名著に親しんだ経験があまりない。この本をきっかけで、少し読んでみようという気になった。
私自身の課題は、本は最後まできちんと読まなければならないという考えからどれだけ自由になれるかだ。
本は必ずしも全部読まなければならないというものではない。ほんの一行でも一生の宝になることもある。全部読み切らなければならないと思うから、読書が進まなくなる。印象に残る一文を見いだすという意識で読むのも、読書を進みやすくするコツだ。
時間は有限で、読みたい本・読まなければならない本はたくさんある。全部を同じように隅から隅まで読み込むのは不可能だ。それはわかっている。しかし一文を見つけたとしても、読まなかったところにもっといいものがあるんじゃないかと思ってしまうわけだ。ここからどれだけ割り切って次の本に進めるかが、読書量を増やすために必要な意識変革だ。
日本の読書力は海外でも知られている。本書では「読むことの歴史」(シャルティエ、カバッロ編)から次の部分を引用している。
日本の場合は特殊である。「日いづる国」には、「強力な」読者が知られるかぎりもっとも高密度に集中している。これには近代的な出版産業、高度に整備され洗練された出版業が供給を行なっており、年間およそ四万種類、十五億冊の本が精算・印刷されている。出版社の数も約五〇〇〇企業にのぼる。
これは「本」「読者」「出版産業」を「IT機器」「(IT機器の)ユーザ」「IT産業」と置き換えてもほぼそのまま当てはまる。小さな国に、同じ言葉(ただしグローバルではない)を話す人間が1億人以上ひしめき合って生活している。わざわざリスクを冒して海外に打って出なくても、国内だけで十分に産業として成り立ち、食っていける。これは幸せなことだったが、グローバル化が進んで海外との競争が当たり前になり、海外企業が自由に参入してくる時代では、隔離された世界で無菌培養された産業が死滅する危険性も持ち合わせている。出版業界は言語の壁が非常に高いからそうそう影響を受けないだろうが、IT産業は実に危うい。
精神的な活動と考えられがちな読書を、実は身体的行為であるとするのは、身体論を研究してきた著者ならではの視点だ。その最たるものが「音読」である。以前このブログでも取り上げた三色ボールペンで本に線を引きながら読むやりかたは、頭の中での主観と客観の切り替えを、ボールペンの色を変えるという身体行為に変換しているわけだ。
読書会の勧めとその運営方法や、ひとつの本について複数名が図を書きながら対話するマッピングコミュニケーションなどの読書を楽しくするアイディアは、著者が実践して効果を上げているものだけに具体的でわかりやすく、すぐにでも取りかかれそうな気になる。マッピングコミュニケーションは、仕事の場でも効果的だ。議論が空中戦にならないようにするためには、口頭で話をするのに加えて、ホワイトボードに図を書いたり、共通のテキストに書き込みをしたりして、論点がすれ違わないようにする。チェンジビジョンの平鍋健児氏が使っている「ペアボード」がその一つだ(参考記事)。
読書会に参加した人の読みのレベル差が運営に支障を来すことがある。読みが深い人はどんどん発言できるが、そうでない人(実はこちらの割合が多い)が発言できず、対話に加われないというアンバランスが起きる。それを避けるために著者が行っているのが、最後まで読んでこなくてもよいから、自分が面白いと思ったところに緑の線を引いてきて、それを順番に発表するというやり方だ。これなら誰にでもできる。面白いと思うことは誰にでもできるし、なぜ面白いと思ったかは人それぞれだから、批判される筋合いもない。読みのレベルが高い人が思いつかなかった視点が提示されることもあって、場が活性する。
これは会社の会議でも使えそうだ。マネージャやリーダが話し続ける会議というのは生産性が低いし、メンバーのモチベーションを下げてしまいかねない。メンバーに活発に発言させるために、日頃の業務について順番に話をさせるということはよくやるが、単なる業務報告に終わってしまって面白くない。その人とマネージャだけの会話になることもある。例えば、先週面白かったことひゃ興味を惹かれたことというテーマで話をさせるのはどうだろうか。仕事でもいいし、読んだ本や雑誌でもよい。インターネットでこういう面白い記事やニュースを見つけたというのでもいいだろう。よりカジュアルな話し合いにするなら、趣味や私生活まで範囲を広げるものよいだろう。チームビルディングに使えそうな気がする。
本を読んだ後、それが記憶に残らないという悩みを私も持っている。せっかく読んだのに、それが自分の血となり肉となっているのかわからなくて不安になる。学んだことを定着させるには、それを使うのが一番。それにあらためて気づかされたのは、読んだ本について誰かに話して聞かせることや、面白いと思った部分を書き写して、それを膨らませて作文にするというアイディアだ。使っているうちに本の内容が頭に刻み込まれて定着し、自分のものになる。話し掛けた相手からのフィードバックで考えが深まるかも知れない。ブログに書くのもいいだろう。実際、この記事を書いているのも、この本に触発されたからだ。
人に話して聞かせたり文章にしたりするときには、なぜ自分がその本やその部分を面白いと思ったのかを説明できなければならない。相手はその本を読んでいないから、共通の土俵の上にいない。この説明をすっ飛ばしてしまうと、「読んで面白かったよ」というだけの会話や文章になり、そこから話が広がらない。自分の考えを整理し、言葉にして説明できる力は、ビジネスコミュニケーション、特に海外の人間とのコミュニケーションで必須のスキルだ。文化的背景や受けた教育、さらに職歴も異なる相手に自分の思いを伝え、自分がやりたいことを人を動かして実現していくためには、一に説明、二に説明、三も四も五も説明だ。「これをやるとなぜいいのか、自社にとってのメリットはなにか、やってもらう人間にとってはどんないいことがあるのか」。これを言葉にして伝えていくことが欠かせない。
齋藤氏が授業で行っているブックリストの交換は、自分が面白いと思ったことをきちんと言葉で説明できるようにするという訓練になっている。アメリカの小学校でやっている「Show and Tell」と同じだ。自分が好きなものを学校に持ってきて、みんなに見せながら、なぜそれが好きなのかを説明する。アメリカでもここ10年くらいで始まったものだということを聞いたが、日本ではまず見かけない。こういうところでプレゼンテーション能力や表現力、意地の悪い言い方をすると図々しさや自己顕示力の強さに差が付いてきているのだろう。そして、いままでの日本の奥ゆかしさや物静かさは、グローバル社会で格好のカモになりつつある。
したがって、著者が言う「読書はコミュニケーション力を鍛える」というのは、単に本を読むだけでなく、その後の活動がきわめて重要になる。読んで本棚に置いておくだけではコミュニケーション力は向上しない。大量の読書(著者は文庫系100冊・新書系50冊という目安を上げる)をインプットとし、様々なアウトプットを行い、それに対するフィードバックを再び自分の中に取り込んでいく必要がある。
(参考記事)
見える化によるプロジェクトファシリテーション
http://www2.npo-aip.or.jp/aip-community/pdf/ProjectFacilitation20051124.pdf
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