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2008年2月24日

メディアとコンテンツ、主観と客観を分けて考える

ジャーナリストの佐々木俊尚氏が、アーキテクチャとしてのジャーナリズムが台頭してきていると語っている(参考記事1)。従来のメディアは、記者や編集者、ジャーナリストたちが作っていた。彼ら・彼女らが自分の意志を持って世の中で起きていることを報道するのが従来のジャーナリズムだった。そこには人間の恣意的な意志が入る。これに対してブログやSNSに代表されるメディアは、自動化されていて人間の判断が入らない。それこそが公平であり、メディアとしてあるべき姿と考える。そこでの情報のやりとり自体がジャーナリズムとなる。これはジャーナリストのいないジャーナリズムであり、アーキテクチャとしてのジャーナリズムであるというのが佐々木氏の主張である。

新聞やテレビ放送などを指す「メディア」という言葉は、実は2つの役割を総称している。ひとつはメディアという言葉通りの役割、つまりなにかを伝える「媒体」である。もうひとつは、媒体の上を流れる「コンテンツ」やその「制作者」である。メディアという言葉は、媒体を指したりそのアウトプットのコンテンツを指したりしていたが、これからは二つを使い分けなければいけなくなっている。それは、これまで新聞やテレビ局の独占的所有物であった「媒体」を、インターネットによって個人が持てるようになり、個人が新聞やテレビなどと同列の「メディア」となる機会が得られたからだ。

佐々木氏の言うアーキテクチャとしてのジャーナリズムは、コンテンツを恣意的に加工しない媒体の上で、各自がそれぞれの意見を交換することで成り立つ。これに対して旧来のメディアは、媒体自体が恣意的にコンテンツを制作し加工することができた。新聞の社説がその典型だ。報道記事にも記者の考えや視点が含まれていて、決して事実そのものを伝えてはいない。

そもそも、人がなにかを取り上げてものを書くという行為自体に、その人のものの見方が反映されている。従って客観的報道というものは決して存在しない。全ての報道は記者の主観で成り立っている。統計値などのデータは客観的事物だが、どのデータを記事に取り上げるか、どんな文脈でそのデータを使うかで、記者の数だけ結論も異なる。

中田英寿が引退するとき、記者会見を全く開かず、自分のホームページに例の文章を載せて、その後どこで何をしているのか全くわからなくなった。このことについて日経ビジネスの井上編集長(当時)が憤慨していた(参考記事2)。ひとつは中田に対する憤慨で、要人であり公人と言ってもいい中田は、引退のような重要なことについては記者会見を開くべきであるということ。もうひとつは、中田を全く捕まえられず、ほぞを噛むだったメディアに対する憤慨で、中田に質問するなどしてその真意を確かめ報道するべきだったという批判だ。

なぜ中田はこういう方法を採ったのだろうか。彼のマスコミ嫌いは有名だった。テニスの伊達公子や以前のイチローマスコミ嫌いと言われていた。おそらく、自分の発言の真意が伝えられず、曲解されたり、おもしろおかしく伝えられたりすることに嫌気がさしたのだろう。記者の主観が過度に付け加えられたコンテンツによって、媒体としての信用をマスコミは失ったのだ。記者会見を開いてもらえなかったメディアは、自業自得といえる。

ブログやSNSは、コンテンツ制作者の意図をそのまま伝えることができるから、媒体として理想的と思われる。あとはその上に載せるコンテンツの質が勝負だ。そして忘れてならないのは、それを読む側にもある一定のスキルが求められるということだ。

先ほど書いたように、全てのコンテンツには制作者の主観が反映されている。社説などは明らかに主観的文章であるとわかるが、客観報道に見える記事は要注意だ。例えば、記事に使われた写真やそのキャプションだ。ある人を非難する記事に、その人の不機嫌そうな表情の写真が載っていることが多い(例えば最近の朝青龍報道)。人間はいつも笑っていられるわけではない。実際には不機嫌でないのに、不機嫌に見える表情をすることがある。その一瞬を偶然とらえた写真を批判的内容の記事に使って、記者の主張を補強している可能性はないか。そういったことを見抜く力が必要だ。例として、読売新聞2008年1月29日付朝刊に載った写真を引用しておこう。この男性は、本当に相場の急落で頭を抱えているのだろうか、それとも頭が痒かっただけなのだろうか。
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参考記事1
アイティメディアキーマン対談
ネット時代のITとメディアの関係について──ジャーナリスト 佐々木俊尚氏に聞く
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/podcast/keyman.html
http://stream.itmedia.co.jp/podcast/keyman/20071221.mp3

参考記事2
日経ビジネスPodcast「編集長の終わらない話2.0」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/podcast/20060730/107142/
2006年7月10日号「格差の世紀 Global Gapitalismを誰が止めるか」(バックナンバーなし)

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コメント

加工性もあるんだけど、重要度のタグづけというのが、実はメディアの権力の源泉だと思っています。

中田氏の場合は加工性が問題だったのかもしれませんが、視聴者として感じるのは、何を載せて、何を載せないか。という重要度の判断を寡占していることです。
左翼的なメディアの場合の選択の恣意性は、加工性と同様に歪だと思っています。

ありがとうございました。

投稿: スポンタ中村 | 2008年2月25日 19時36分

重要度判断の寡占化。それも従来メディアの特権のひとつですね。今までは、メディアが重要でないと判断して報道しない情報は、大衆の目に触れることはなかった。媒体の独占によるコンテンツのコントロール。そこで求められたのは、報道されていないものを見抜いたり、行間を読み解く力でした。

ブログや掲示板の登場によって、今までは闇から闇に葬られていた情報や、一部の"特権階級"が占有していた情報がインターネットで公開されるようになった。その反面、玉石混淆の情報が乱れ飛ぶので、重要度や真偽の判断は読者に任される。選択判断という新しい力が問われる時代になっていると思います。

投稿: raven | 2008年2月25日 22時29分

リプライありがとうございます。

玉石混交というのが、重要度を勘案するメディアがインターネット上にないということです。

読者というのも一様ではないのだから、多様な玉石混交があるべきなのに、それをグーグルやヤフーが寡占している。そういう状況なのです。

ありがとうございました。

投稿: スポンタ | 2008年2月26日 08時43分

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